時をかける表象

東京大学文科2類。記事と日記に分かれてます。

奥歯千切れ僕ガチギレ

 

半年前に親知らずを抜いた。決戦の舞台は夜の歯医者さん。抜歯の中でも親知らずを抜くのが最強に痛いですと言われた。歯に衣着せぬ物言いだった。白い布で歯科医に視界を奪われ、院内は交響曲第9番が流れていた。何が歓喜の歌やねんと思いつつ、なんかこのままあの世に行ってしまうんじゃないかとふと思って怖くなる。そういえばエヴァンゲリオンでもクラシックが流れていたような気もするし、やたらと明るい照明に照らされながら白い布を顔に覆われてベッドに横たわっている私。白を基調とした院内に流れるクラシック。感情を失った終結者みたいな歯科医と何も言わない助手。これで終わりですという言葉とともに白い布を外されて視界が広がると、本当に人生そのものが終わっていたらどうしよう。何もわからないままに閻魔大王から現世でのフィードバックを受けている自分を想像して吐き気がする。
それでは麻酔を打っていきますねと歯科医が言う。腐敗したトマトのように腫れた歯茎に鋭利な針が刺さり、何かしらの液体がグッと注入される感覚だけが何倍も膨れ上がる。やがて局所的に感覚がなくなってくる。毎回麻酔を打たれる度に、あまり精神が強くない人は常に心に麻酔をかけているんだろうなと思う。深く踏み込まれると傷付くことがわかっているから常に予防線を張っている、みたいな。他人から言われたくないから自虐ネタを言う、みたいな。ここに麻酔を打たれるということは、これからここをエグっていくんだぞということが示されているような気がして、ゾクゾクする。やがて産業革命初期の機械のようなドリルが、ギリラ、ギリラ、という不快な音を立てて歯を削っていく。そしてカエルの解剖で使うような鋭い刃物で歯茎を切り裂く。痛くはないですかと確認してくれるが、奥歯に物が挟まったようで何も言えない。そして石器時代にもありそうな原始的なペンチのようなもので奥歯を掻き回しながら、一気に全体重をかけて根っこから引き抜こうとする。ミシミシ、ミシミシという音が聞こえる。次の瞬間、感覚のなくなったはずの右頬に雷のような鋭い鈍痛が走り、私は左手を上げて麻酔を追加してもらう。結果として、まるで延長期間の方が長い緊急事態宣言のように、当初よりも何倍も多い量の麻酔を投入してもらった気がする。抜けました!と歯科医が歯切れ良く言うと、抜けた歯を私に見せつけてくる。へその緒のように見せつけられたところでなんと言えばいいのか。気の利いた返しを考えてみても、麻酔のせいで空いた口が塞がらない。
それから数日間はまともに食べることも話すこともできなかった。常に奥歯からは血が吹き出して汚いグラウンドの和式便所のような心地がするし、歯茎は水に濡れた紙粘土のようにブヨブヨで、スーパーで買った安い魚のような匂いがした。夜中も出血が続くのでパインの缶詰の空き缶に血の混じった唾液を吐き続けた。運が悪くこういう時期にもターム制の定期試験や就職活動の面接があった。こんな時にも血は止まってくれない。きっと悲しくないのに涙が流れるのと同じ理由。