時をかける表象

東京大学文科2類。記事と日記に分かれてます。

18.「高校/嬉しかったこと」

2021/04/08 木曜日

 

昨日は中学校で嬉しかったことについて書きました。今日は高校で嬉しかったことについて書きます。高校で最も嬉しかったことは高校3年の駅伝です。私は高校でも陸上部に入部し、長距離パートに所属していました。部員数は学年によっても異なりますが、男子は1学年につき10人前後だったと思います。それよりもパートごとのバラつきの方が顕著で、私の学年の長距離パートは4人か3人かそのくらいでした。1つ上の学年や1つ下の学年が5人以上だったことを考えると、やや少なめです。高校でも秋や冬にはいくつか駅伝があり、主に800mと1500mを専門としていた私も当然走ることになりました。中学の駅伝は全区間3kmでしたが、高校の駅伝は7区まであり、10kmか8kmか5kmか3kmです。合計すると、10km+(約8km+5km+3km)×2で42.195kmになります。高校2年までの駅伝は普通の大会と同様に原則参加でしたが、高校3年生の駅伝は自由参加みたいなところがありました。他の学校は高校3年生の駅伝で引退扱いというか、強制しなくても最後の駅伝を走りたいという人も多いようです。ちなみに中学の時は3年の秋の駅伝まで原則参加でした。私の高校は進学校ということもあって最後は個人の判断という感じでした。それもあって、1〜2年の段階から先輩に「3年の秋まで誰が残る?」といった質問を投げかけられたり、後輩から「残ってくださいよ」と言われたりしがちです。ちなみに高校3年の秋まで練習したからといって確実にメンバー入りできるとは限りません。結果から言えば、私の学年で駅伝まで残った男子は私だけでした。私はあまり部の歴史に詳しくないですが、2〜3人ほど残った学年の方が多いのではないかと思っています。少なくとも私が知っている限りはそうです。私の学年はそもそも人数が少ない上に、なんとなく誰も残りたがらない空気がありました。あまり駅伝に対する思い入れがなかったのかもしれません。私が高校3年の駅伝を走ろうと決心したのは、高校3年の8月下旬でした。なぜそう思い至ったのかわかりません。勉強がしたくなかったのか、さすがに誰も残らないのはマズいという正義感からなのか、この時期に退部した人がいたからなのか、色々理由は考えられますが、多分なんとなく残った方がいいと思ったからだと思います。決断した日に顧問にその旨を伝え、夕方には同じ長距離の同級生にLINEを送りました。私は入部当初から絶対駅伝を走りたくないというスタンスを取っていたにもかかわらず、誰にも相談せずにいきなり決断したので、なんか出し抜いたような形になってしまったことを謝りました。謝る必要はないと言ってくれました。嬉しかったです。

とはいっても、引退までは結構苦しかったです。1人だけ3年生ということもあって、話す相手がいなかったからです。部としては既に代替わりをしていて、先輩である私がどういうスタンスを取ればいいのかわかりませんでした。私は先輩を敬うタイプでも後輩の面倒見がいいタイプでもなく、それはどうなんだと思われることもあったので、ここは唯一の3年生としてリーダーシップを発揮した方がいいのかとも思いましたが、今更チームのまとめ役を買って出ても老害が出しゃばってる感が否めないよななどと考えていました。今思えば2年生の時も、私が他の部員と話している内に、ゲリラ的なパートミーティングが開催されていたり、私には知らせずに新入生歓迎会的な花見を行っていたりと、実はパートにコミット出来てなかった説もあります。あと800mや1500mを速く走るために駅伝も走っていたところがあったので、駅伝のためだけに練習をするという感覚もよくわかりませんでした。シンプルに距離が長すぎて飽きます。あと受験勉強に本腰を入れている同級生や、学年集会などで「もう部活が終わったんだから」と煽る先生、それに比べて楽しく青春を謳歌している後輩たちの中で、どこか私だけが浮いた存在のように感じていました。駅伝に残るつもりがなかったので1〜2ヶ月ほどのブランクがありましたが、それは特に意識してませんでした。消化試合感もあったし、なんだかんだ引退試合は走れるだろうなと思ったからです。
特に何も意識することなく地区の駅伝大会を迎え、私はアンカーを走りました。アンカーは5kmです。その前年もアンカーを走り、4位と5秒差でもらったタスキを6秒差にしてゴールしました。チームの順位は3位で、区間順位は2位でした。私が1年生の時は先輩から「区間3位は当たり前」とプレッシャーをかけられ、実際に7人中5人が区間3位以内でしたが、私が高校2年の時は私だけでした。そして高校3年生の時は3位と1分40秒ほど差のある4位でタスキをもらいました。あまりにも消化試合すぎて、沿道にいる他校の学生に手を振りながら気楽に走りました。たまたま3位のアンカーが不調だったこともあって、40秒差でゴールしましたが、一度も姿を見ることはできませんでした。チームの順位は4位で、区間順位は3位でした。何のために練習しているのだろうと思いました。あまりにも不甲斐ない結果だったため、試合終わりのミーティングで顧問の先生は少し怒っていました。そして県大会では私を2区に起用すると言ってくれました。2区は3kmで、私の持ち味が最も活かせる区間なので嬉しかったです。
県駅伝までの練習はほとんど覚えていませんが、県駅伝当日のことはよく覚えています。雨がパラつき、うんざりするほど風が強かったです。私は2区を走りました。1区は10kmでエース区間、3区は8kmの山登りなので、大きく順位が変動しがちな区間です。2区はその橋渡しの区間であり、3kmなのであまり順位は変動しません。必要なのかなと思ってしまいます。私は1年生の時もこの2区を任され、3人を抜いて区間順位は10位でした。顧問の先生に褒められたのが嬉しかったです。また3年生の時は9人抜きを達成し、区間順位は4位でした。悪天候もありタイム自体は1年生の時より19秒も遅いですが、1〜3位が西脇工業、報徳学園、須磨学園という強豪だったので、実質的に私の中では区間賞です。ちなみに区間1位とは31秒差、区間3位とは24秒差なので、ブッチギリの区間4位です。先頭争いをしているその3校のうち、誰かが爆死したり道に迷ったりしてワンチャン区間3位に入れるかなとかも思っていましたが、普通に無理でした。走っている時は自分でも恐ろしいほど冷静で、沿道で応援している後輩の姿や、縦一直線に並んで走っている6人くらいの集団を一気に抜き去った快感を今でも覚えています。あと1年生の時に気持ちを切らしてしまった2200m付近のところで、なんとか踏ん張れたのがよかったなと思います。顧問の先生にもかなり褒めてもらいました。後日、後輩が私の送別会をしてくれました。焼肉屋の食べ放題で2つのテーブルに分かれて座りました。途中からお互いのテーブルの注文をお互いが決めるイベントが発生し、だいぶ満腹に近くなってきた頃にカレーを5人前頼もうとした後輩がいました。天井の換気扇に吸い込まれていく煙を眺めながら、どうして私たちはお金を払って苦しい思いをしているのだろうと考えていました。自由にも致死量があります。

 

 

 

【松岡修造】

 

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普通に日食なつこの「致死量の自由」を紹介する流れになりましたが、本文が長くなったので松岡修造について紹介します。この動画は試合前にずっと観て、「できる、できる、君ならできる」と自分に言い聞かせていました。最初は先輩から勧められたものでしたが、「ビーハッピー!!ビービーハッピー!!」を2回繰り返す技巧も結構好きで、今でも夜中に見て元気をもらっています。頑張れとは言うけど勝てとは言わないところが、優しさでもあり厳しさでもある気がします。負ける時は負けます。でも本当に全力を出し切って負けたのかと考えると、どんどん自分を追い込むことになります。本当の優しさってなんなんだろう、弱者や敗者に何を言えばいいのだろう、本当の勝者ってなんなんだろう、と考えてしまいます。