時をかける表象

東京大学文科2類。記事と日記に分かれてます。

【なぜ勉強は必要なのか】

2018/05/20 日曜日 [あとがき] 2020/07/25 土曜日

 

「なぜ勉強をしなくちゃいけないの?」というのは年齢を問わず多くの学生の素朴な疑問である

学生のうちに勉強してなくても社会的に成功を収めている人は多いし、有名大学を卒業していても犯罪に手を染める人は少なからずいる

自分がこの質問に対する、自分なりの答えを見つけたのは高校2年の頃

これは、もし自分が母校の合格体験記の執筆を依頼されたら、と思って高2の時に書いておいたものである

勉強に限らず、実績や仕事量というのは才能・能力と努力・工夫の掛け算である

公立中学校の教室を見ていると、死ぬ気で先生の言うことをメモして、綺麗にノートをまとめ、定期テスト対策に尋常じゃないくらいの熱意をかけても、結果的には40点くらいの点数に終わる人をよく見かける

一方でぼーっと生きているように見えるのに、何気なく50点くらいの点数を取る人もいる

この差は何かと言われれば、おそらく才能の差である

前者は最大の努力値、つまり10の努力をしているが、才能が4しかないために40点(=10×4)に終わる

後者は6くらいの努力に8の潜在能力を持ち合わせて6×8=48となるわけである

つまり最大の能力に最大の努力を掛け合わせて最高点が飛び出すのである

これは勉強に限った話ではない

生まれつきマラソンランナーとしての能力が高く、オリンピックで優勝するほど練習を積み重ねたランナーでも、100kmの直線をスポーツカーと競争して勝つことはできない

それは人間と乗り物の能力の差である

ここでいう能力や才能というのは、その分野、種目における能力であって、その人が全ての分野において能力が低いとは限らない

ここが一番伝えたいところである

要は、自分に才能がない分野は諦めてしまえばいいのである

土曜の夜に10時間以上勉強して、正気のSaturday Nightと言えるような努力を積み重ねた40点は、誰かが余裕で到達していった点数なのである

幸せとは、自分が楽をしながら他人に勝てる分野を見つけることであるとも言える

ではなぜ初等教育で勉強することを強制されるのか

そもそも勉強の才能がない人間は勉強する意味がないのではないか

それは半分正解で半分間違いだと思う

例えば40点しか取れない人は勉強の才能が4だっただけで、才能がありあまる分野が他にあるかもしれない

そうした時に、その人は間違いなく大成する

なぜなら勉強を通じて努力の最大値を出せるようになったからである

最大の能力と合わせれば鬼に金棒である

逆に言えば、6×8=48点の人はどの分野でも大成しない可能性がある

才能が10でも努力が6では60にしかならない

これがいわゆる器用貧乏というものである

だから努力の最大値を出す方法を学ぶために、勉強の才能がなくても勉強する意味はあると思う

これが半分間違いだと言った理由である

ではなぜ半分正解だと言ったのかというと、それは努力の仕方を学ぶ方法は勉強以外にもあると思うからである

例えば先祖代々伝統芸能に携わってきて、自分もそれを継ぐことが半強制的に決まっている人、あるいは自分は将来歌手やスポーツ選手などに絶対なると決心している人である

その人たちは社会人として恥ずかしくない程度の常識さえ身につければ勉強しなくてもいいと思う

実際、卓球選手として大成するのに、美術の色相環や筆者の気持ち、整数問題の解法を理解する必要はないと思うし、そんなことよりもその競技に勤しむ方が効率的だと思う

当時の麻生太郎首相が「未曾有」を読み間違えた時、野党やメディアは一斉にそれを非難したが、幼い頃からスポーツ一筋で生きてきたアスリートが誤読したとしても叩かれる必要はない

求められることが違うのである

もっとも、政策を打つ能力と漢字を読む能力にどれほど相関があるのか気になるところではあるのだが

しかし幼いうちから将来が約束されている、あるいは確固たる将来の夢がある人の方が少ないのも事実だと思う

そして学生にとって1番身近な作業が勉強であるのもまた事実だと思う

自分に最も適した分野が見つかった時のために、努力の仕方を学ぶ必要があり、その道具がたまたま多くの人にとっては勉強だったのではないだろうか

そう考えれば、努力の仕方を学ぶためにするものは、勉強以外の何かでも代替可能なのだと思う

 

 

 

[あとがき] 2020/07/25 土曜日

これは高校2年生に書いた文章を浪人期に修正してできたものです。自分なりに努力をする方法やプロセスを学ぶために勉強はあるのだと結論付けていますが、これは今読み返してもそんなに間違っていない気がします。私は現在東京大学陸上部に所属していますが、その中には大学から陸上を始めた選手が数名います。というか、中学高校大学と陸上をやっている選手の方が少ないのかもしれません。東大のような非強化校の大学で陸上部に入っている生徒は、基本的に成績が悪すぎるということはあまりないと思います。中にはどこの部でも部活に対する熱意が強すぎて自主的に(?)留年する方もおられるようですが、基本的に進学選択や就活で苦境に立たされてまで続けるべきではないと個人的には思います。実際に私が入部した時には、かつて学業との両立の兼ね合いが原因で退部された先輩がいたことも話に聞きました。そんな中、初心者として入部してきた生徒は割と東大の中でも成績がよくて、努力家の人が多いと思います。特に1年の秋ごろや2年の春ごろに入部する生徒はその傾向が強く、それはある種当たり前のことだとも思います。なぜなら、勉強で苦労している生徒がわざわざ新たに部活に入って自らの首を絞めるとは考えにくいからです。実際初心者として入部した私の同期も特に優秀で、熱意があると思います。そして高校の時もそうでしたが、初心者の方が多くの先輩にアドバイスを聞き、情報を取捨選択しながら地道に努力を積んでいる印象があります。そして入部して1年経つ頃には、立派に自分の考えを後輩や同期に伝えたりするようになるのです。もちろんこれが全て勉強の産物だと言うつもりはありませんが、模倣は独創の母であることを実感します。そして模倣から独自性を生み出す過程を身に付けられるのが勉強であり、もっと広い意味での学習なのだと思います。学校で初めて習った概念も、例題とその答えを模倣するところから勉強は始まります。模倣していく中で、整理と発展が生まれるのです。そして今、私が書いている文章も何かの複製ではありませんが、過去に使われている言葉や文法を全て私が編み出したわけではありません。全て学習を通じて体得したものです。

またこの文章では書かれていなかった概念があります。それは「環境」という要因です。私が東大に入学した時、入学式での上野千鶴子教授のスピーチがワイドショーなどで話題になりました。スピーチの序盤に東大では未だ女子生徒の割合が2割に達していないことに触れ、後半には「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。」という言葉も出てきました。実際東大で学生生活を送る中で、開成や桜蔭といった都内のエリートとの環境の違いをまざまざと見せつけられる場面が何度もあります。しかし、彼らもまた私にとっては初歩的な人間関係に悩んだり、歪な環境で育ったことによる大衆との乖離や世間から色眼鏡をかけて見られることに困惑したりしていることもあると知っています。当然ですが、都会にも地方にも、別学にも共学にも長所と短所があり、環境は1つの要素や要因であって正解はないということです。東大生は世間が思うほど世間知らずではないし、世間が思うほど万能でもない。

また地方出身の私にとって、彼らと対極の存在である人々もいくつかの知見を与えてくれます。それは大学などに進学せず、あまり勉強をせずに過ごしている地元の友人などです。進学校にいると感覚が狂ってしまうのですが、私と同世代の約半数は大学に進学していません。だから特に大学に行っていないことが恥ずかしいことであるとも思いませんし、何より彼らは人生が楽しそうです。実際にどうかはわかりませんが、少なくとも私から見て楽しそうに感じます。逆にTwitterなどにいる東大生の一部は病んでいたり歪んでいたりするように見えます。誰もが「将来のために勉強しましょう」という教えを聞いたことがあると思いますが、この観点からすればこの結果は予想と矛盾する形になります。どうして各世代ではトップクラスで勉強もできるし、努力もできる人々が幸せそうに見えないのでしょうか。

まず「勉強ができる」というのは相対的なものであるということが挙げられると思います。トップクラスで勉強ができる人は、物心ついた時からそのトップクラスの中に存在していることが多いのです。そして歳を重ねる内に、「勉強ができる」ということ自体は幸福になる上での足切り程度の役割しか果たさないということも何となくわかってきます。知性があることで困難を回避したり乗り越えたりすることはできますが、幸福を掴み取れるかどうかはまた別の能力が必要になるということです。私はまだ就職活動をしていませんが、就活には学歴フィルターと呼ばれるものは存在するらしいです。しかし今言っている困難を回避するというのはそうしたものではなくて、例えば歴史を知っていることで政治を見る目が変わったり、言葉を知っていることで自分の複雑な感情や経緯を誰かに伝えたりすることができるということです。誰かに無意識のうちに搾取されていることに気付き、それに抗議することだって知性が為せる業なのです。ペンは剣よりも強しという言葉もあります。だからこそ、何も知らない・考えていない人はそうした困難にそもそも気付いておらず、ありふれた日常に充足感を得ているのだと思うし、少しだけ勉強のできるの人の多くが、自分では乗り越えられない困難に悩まされているのだと思います。そして就活でも学歴だけが重視されるわけではありません。勉強を通じて何を身につけたかということも勉強内容と同じくらい重要になのです。

また大学に入学して教育や学習という概念の幅広さも学びました。受験生だった時にはあまり意識できていなかったのですが、勉強は何も塾や学校で先生から教えてもらうことではないということです。当然自分で本を読んで学ぶことも勉強ですし、親や公園にいる人から話を聞くことも勉強です。私自身の中での、こうした教育という概念の変容についてもまたいつか書いていきたいと思います。